狙われた羊 中村敦夫
面白かった。洗脳とかカルトとか宗教に興味があるので面白く読めました。
大筋は例の発砲事件があったあたりにインターネットなどで読み漁った時に得た理解を再びなぞる感じ。ただ、いろんな描写がとても詳細でリアリティに溢れていた。洗脳されていく過程とか、洗脳を解こうとする過程とか。取材すごいなと思いました。
私は洗脳というのは、カルト宗教だけじゃなく、真っ当な宗教も、子育ても、教育も、全部洗脳と思っている。何を信じて生きていくのか、の判断を培う手段として。ただその洗脳内容が社会的に見てreasonable かどうかの違い。だから何が洗脳で何が真っ当な子育てなのかっていうのは時代とともに変わるし、まあ変わらないでいるものがあるのであれがそこにはにはそれなりの価値があるのでしょう。
何が洗脳で何が洗脳でないか、社会的に見て reasonable であるか、もだけど、本人がそれで幸せならいいのでは?っていうのもあるよね。なんていうか、周りから見たらあり得ないことでも本人が望んで信じているのならいいのでは?でもどうやったら本人が自ら望んだのか、望むように洗脳された結果なのか?が判断できるのか?でも結果本人が幸せならいいのか?というのはどう考えたらいいんでしょうか。
洗脳とか、教育も宗教もだけど、アメリカに住んでて思うのは、人はなんかそれっぽい話、物語の方を、真実より好む傾向にある、ということ。
真実かどうかより、真実味があるかどうかが前に出てきてる。真実かどうかはファクトチェックとか色々大変だけど、真実味があるかどうかは、本人がそれっぽいと思えばそれでいいので、楽。楽な方へ流されるのが人間、と思えばそりゃそうなんだけれど、それではいけないから、そこを思いとどまって、いかにそれっぽい話に惑わされず真実を追い求め、価値のある真実を見極めようではないかっていうのが人類の発展の一部ではなかったのかなと私は思う。その見極めの判断能力を培うのが教育ってことだったと思う。
私はそれを当たり前と思って生きてきたけれど、ちょっと違うのかも。これは「真実には価値がある」っていうことを信じて初めて成り立つことであって、そりゃそうでしょ、それはもう社会の最も基本でしょって思っていた私がちょっとナイーブすぎたんではないか?とアメリカに住んでると思わざるを得ない。
アメリカにいると「私がこれが真実だと信じるからそれでいい!それの何がいけないの?」っていう感じ。でもそれがアメリカ。それは知ってる。前例にとらわれない、既成概念にとらわれないのは悪いことではないが、いいことばかりでもない。というのを如実に表している。
日本にいるときは、一応「世間」というものがあり、それに照らし合わせて真実味を判断できた気もするし、世間が思う真実が本当の真実かどうかは別として、そこである程度の reasonability が保たれていた気がする。アメリカは世間なんて概念ないからなー。色々洗脳されやすい環境が整っている気がする。
洗脳の逆には自分とは違う意見の人にも耳を傾ける、ということもあると思うが、逆に言えばそれをさせないようにするのが洗脳なんだろうな。昔はみんな貧しくて意見が違おうがとにかく助け合わないと生きていけなかったから意見が違おうがとにかく一緒に働くしかなかった。そのことが洗脳され孤立して、ということをある程度防げてたのはあると思う。でも現代は、特にアメリカはリッチな国で助け合わなくても生きていける人が多いから、違う意見耳を傾けることもないし、信じたいことしか信じないで盲目的にその世界で生きている人が増えてると思う。まあその結果は過去10年の政治など見てれば一目瞭然ですよね。
まあいいんですよ。それで本人が幸せなら、その洗脳というか思い込みの中で生きていただいて。ただそれが誰かの犠牲の上に成り立ってるとか、誰かを虐げる結果につながってるなら話は別ですよね。そこは盲目に信じるの一旦やめて assess していかないといけない。洗脳されやすい人につけ込むような行動はそれなりに裁かれなければいけない。と私は思う。
もう一つ思うのは洗脳と心の拠り所の見極め。
心の拠り所があった方が人生のクオリティは上がる。心の拠り所を求めるから洗脳されがちになってしまう。心の拠り所を求めるのは当たり前のことだし、心の拠り所を持つことは大切なことだと思う。でも一方でそれってとてもfragile なこと。宗教にしても、家族にしても、自分の置かれた環境が本当に自分にとっていい環境なのか、そこを心の拠り所にすることは本当に自分のQOLにつながっているのか。QOLが低くても心の拠り所と思える場所があった方がいい、と思うこともあるのだろう。心の拠り所をキープするために自分のQOLがどうなのかということを考えるのをやめてしまうことものだろう。そんな中どうやって生きていくのか。難しいですね。
