Klara and the Sun / クララとお日さま by Kazuo Ishiguro

最近、Kazuo Ishiguro の Klara and the Sun (邦題: クララとお日さま) を読み終わった。

私が最初に読んだ Kazuo Ishiguto の作品は Never Let Me Go (邦題: わたしを離さないで) で、とても衝撃を受けたのを覚えている。登場人物たち存在の真の目的がわかった時、あまりにもショックでしばらく読み進めることができなかった。いまだに考えてしまう作品だ。

英語の練習も兼ねて英語の作品は英語で読むようにしている。それはたぶん細やかなニュアンス等を十分に味わえないまま読んでいるということでもあるのだろうなと思う。とはいえ英語で読むことを避けていてはいつまでも英語の機微を感じられないと思うので、そこはしょうがない。頑張るしかない。

そういった状況でも Never Let Me Go は強烈だった。

その後、いくつかの Kazuo Ishiguro 作品を読んで、今回 Klara and the Sun を読んだわけだ。

AI とは、を Kazuo Ishiguro

スタイルで書いた話。人間と AI の区別がどんどん曖昧になっていく中で、人間は AI をどう扱って何を期待するのか。

私は Klara の一途さやひたむきさや少し短絡的なところとか、素敵だなと思ったけれど、でもそこまで感情移入できなかった。理由の一つは、彼女にはおそらくネガティブな思考がないように見える点だと思う。ポジティブなことはいいことだけれど、そういった面しか考えない (考えられない) というのは、私にとってはやっぱり共感しづらいかな。それが AI が AI である所以であるというのであれば、非常に納得。

母親はかなりクレイジーだが、私は母親の必死さには人間味が感じられたというか。ただその方法がおかしいだけで、そこまで思いつめてしまっているんだな、というのはものすごく理解できた。

他に一つ思ったことは、アニミズム的な考え方がある日本だったら、おそらく全く違った話になったのではないだろうか、ということ。私は AI 的なものに実際にそう思って関わったことがないので、なんとも言えないけれど。

おそらく私は怖いのだ。AI 的なもの、に触れた時に自分が何を感じるのか。感情移入しすぎてしまうのも怖い。感情移入しない自分は冷たい人間なんじゃないか、という疑問を持ってしまうかもしれないことも怖い。今は「へー、こんなこともできるんだ。すごーい。」で済んでいるが、これが Artificial Friend までになったらどうなるのだろう。例えば、AI に感謝をすること/しないことは倫理的、道徳的にどうなのか?

とはいえ、日本には神社、というものがあるので、きちんと感謝をして、そして神社で供養してもらう、というのがおそらく私的には一番すっきりする方法なのかもしれない。