枇杷の発芽

南カリフォルニアは結構果物が庭に生えているお宅が多いです。びわ、金柑、レモン、オレンジ、アボカド、杏あたりがメジャーなところでしょうか。

道端に、箱いっぱいのレモンが置いてあって、ご自由にお取りください。というのを見たことがあるし、ある知人は、外部の人に収穫しに来てもらっていたようです。そこで採れたものは近くのホームレスのセンター等に寄付されるとか言っていました。自分の家で消費しきれない場合の、いい方法だと思います。私も知人からいろいろともらうし、手作りの杏ジャムを作ってくれた人もいます。残念ながら私はアパート暮らしなので、自宅には何もないけれど。。。

今回はそんなことで頂いた枇杷を、美味しく食した後に発芽させてみました。結構時間がかかった気もするけれど、発芽率かなりいいです。普通に水につけてほぼ放置だったのに、とやや驚き。幾つかは土に植え替えてみたけれど、あまり差はないような。。。もう少し大きくなったら全てきちんと植え替えて育てていきたいです。

 

 

ムラサキゴテン / パープルハート

一言で表すならものすごい生命力。

外で生えてるものはもっと紫色が強いですが、こちらは室内であまり直射日光を当てずに育てているのでやや緑が強いですね。個人的にこの色味の方が好きかなと思ったので、環境を変えずに現状維持です。

これは道端から拾ってきたので、どうなるかな、大丈夫かな、と思っていたのだけれど、そんな心配をよそにどんどん伸びてます。最初は一本のひょろっとした小さい茎だったのに半年くらいでここまで増えました。

増える、というか、伸びた茎を切ってそれを刺しておくとそれがまた伸びて、というその繰り返しでここまできました。写真は伸びた茎を切って植えた直後なのでこんな見た目ですが、茎の伸び方は面白いんです。

というのも、茎は初めまっすぐに上に向かって伸びていくのですが、ある程度、20cm くらいかな、伸びると茎が横に倒れるんです。水平か、少し下向きくらいに。最初は茎が折れたのかと思ってびっくりしましたが、自分できちんと茎が曲がるようになってるんですね。徐々に倒れていくんではなくて、ある日突然横向きになっているので、短時間でその部分だけ、茎の片側だけ急速に伸びるということなのか、そのメカニズムが気になります。

さて、どんどん伸びるのは切った先だけではありません。切った所からも再び新しい茎が伸びてきます。下の左の写真は切った茎の横から葉っぱが伸び始めているところ。おそらく切ってから10日くらいでこんな感じでしょうか。右は先っぽの小さいは2枚くらいを間違って折ってしまったのだけれど、そこから新しい葉が伸びてきているところ。わかりづらいかもしれないけれど、裏側が見えてる二枚が元々の先端の葉で私が折ってしまったもの。その根元にくっついてやや丸い形の黄緑っぽい葉が新しく出てきた葉。こんなこともあるのかと面白いです。それと、丈夫なのがわかってしまってからはどんどん扱いが雑になっていく、という自分のずぼらさがここから見えてきます。反省です。

 

春先には花も咲きました。もうこれどう見ても日本のツユクサの仲間ですよね。この茎は、葉のつき方が他と違っていたので、どういうことなのかな、と不思議には思っていたのですが、まさか花が咲くとは思ってなかったので嬉しかったです。咲いた後すぐにしぼんでしまって、その後次の蕾が膨らんで、開花して、というのを順番に4回くらい繰り返していました。2つ以上の花が同時に咲くということはなかったです。この時点では茎は2本なので (3本だったかな?)、ここから五ヶ月くらいで最初の写真まで増えたということです。どんどん成長するのは嬉しいですね。これからがとても楽しみです。

 

我が家のポトス

 

 

やはり夜に写真を撮るのはうまくいかない。日中に撮り直してアップしよう。(日中に撮った写真を追加しました。左が日中に撮ったもの。右が夜に撮ったもの。)

 

うちにはいろいろ植物がいる。道端から拾ってきたものとか、幾つかは購入したもの。

このポトスは Baltic Blue というポトス。このものすごく濃い緑に惹かれてオンラインで去年購入。買った時は葉が5枚ほどだったのがどんどん枯れていって、葉が一枚まで減ってしまう。そこから頑張って現在ここまで育つ。特にここ2週間くらいはもりもり葉が増えて、びっくりというか、むしろ謎。

というのも、ポトスはつる科 (?) の植物で枝分かれしないからつるの先端から葉が一枚ずつ増えていく。というのが私の理解。一ヶ月くらい前に、葉が6枚だったのを、3つに切って植え替えたので、それぞれから新しく葉が伸びるとして、新しい葉が出てくるのは3カ所か。と思っていた。ところがここ2週間、新しく顔を出した葉は5枚。地中でどこからいくつ伸びているのか、そんな育ち方をするとは聞いてないよ!とやや怯えつつ、でも育っているのはいいことなので、細かいことは気にせず皆無事に伸びていくのを見守りたい。

次回の植え替え時に見てみるかな。でもそれまでにはもっと葉が増えてわかりづらくなってるかもしれない。

 

道端から拾ってきた、と初めの方に書いたが、南カリフォルニアはサボテンとかユッカとか、結構落ちてる。お庭の手入れをした後のサボテンの葉を道端に置きっぱなしの人がいたり、ユッカの子供達が落ちてたりする。サボテンの葉とか土に植えておくと普通に根っこが出て育つし、ユッカの小さいのも、水栽培から簡単に根が出て育つ。そんな感じでうちに植物が増えていく。そしてそれぞれ巨大化していく。

と言ってもおそらく意味不明だと思うので、今度外で見かけたら写真に撮ってシェアできるようにしようと思う。

 

サボテンとかユッカは南カリフォルニアの気候で外で普通に育つ植物なので、そんなゆるい感じでも元気に育ってくれるのだが、ポトスとか、ここの気候そのままでは育たないだろう植物は少し育てるのに気を遣う。実際葉が一枚になるまで枯らしてしまったという実績もあるし (ポトスは育てやすい植物であるにも関わらず!)、ここ半年くらいは結構頑張って調べたりした。いろいろなウェブサイトから、あと意外なところではインスタグラムから色々学んだかな。便利な世の中ですね。これからも宜しくお願いします。

All the Sinners Bleed by S. A. Cosby

アメリカに住んでいるといろんな形で人種差別問題が浮き彫りになってくる。アジア人である自分も例外ではない。

日本にいた頃、人種差別、という言葉は概念として知っていても、一体それがどういう形で日常に現れているのか、黒人として、アジア人としてアメリカに存在するということは具体的にどういうことなのか、というところまで考え、想像力は全く至っていなかった。

アメリカに住んでいても、自分の限られた世界の中で生きているだけでは、やはり限られた理解しか得られない。まあアメリカはそういう自分の世界でだけ生きていける、いわゆる privileged な人が世の中を回しているので、人種差別は無くならないわけだけど。

そんなアメリカを震撼させたのが、数年前の Black Lives Matter 運動だろう。私は、あの年は今までにないくらい人種差別について考えたし勉強したと思う。これは黒人の問題というかむしろ白人の問題である、と私は思っている。このことについて考える事ところはいろいろあるがそれはまたいずれ。

勉強したとはいえ、所詮 LA 地域に住んでいるアジア人の私が理解できることなんて程度が知れている。西海岸の LA 全体を見ても、やっぱりどこか表面的というか、概念の範疇を超えていない気がして、私はずっと南部 (the South) を理解しなければ、人種差別、特に黒人差別についてはきちんと知ることはできないだろうなと漠然と思っていた。

そんなもやもやした気持ちをうっすら抱えながら日々過ごしていたわけだが、ある日運転中にいつもかけている NPR (National Public Radio) の Fresh AIr という番組でこの本の作者へのインタビューをやっていた。運転中なのできちんと聞けなかったが、黒人の話、南部の話をているのはなんとなくわかった。その日の夜、また運転している時に、NPR から同じ番組の再放送が流れてきた。やっぱり全ては聞けなかったけれど、もう少し聞くことができた。

南部に興味を持っていた私が1日に2回もこの本について耳にするなんて、これは運命かも。というわけで読んでみた。

内容は、一言で言って仕舞えば、南部を舞台にした探偵小説。主人公は元 FBI で、南部の地元の町に戻り初の黒人保安官として働いている。そこで事件が起きて保安官が解決に向かって奔走する話。

ただ、そこで描写される南部の生活がすごくリアリティがあって、勉強になった。なんとなくうっすら持っていた南部の知識、イメージがクリアに見えてきたというか。差別が根強く残ると一言で言ってしまうのは簡単だけれど、それが人々の生活の中にどう表れるのか、コンテキストが見えてきた気がする。例えば、Civil War で奴隷制を支持していた将軍が未だ英雄視されていて、銅像が街の中心部に立っているとか、白人至上主義者がその銅像を守る為に運動をしているとか、黒人と白人で未だに使う葬儀社が別だとか、奴隷制によって富を築いた家が、未だに町で一番裕福な家で、権力もあり、そして町一番の雇用主だとか (工場を幾つか所有しているため)、 新しい世代の新しい人種差別対抗運動をしているグループがいるとか、結局黒人も白人も同じバーで飲んでるとか、だから保安官の主な仕事はそのバーで起こる喧嘩の仲裁だとか。

フィクションだけれど、私が高校、大学のアメリカの歴史の先生なら学生に課題としてぜひ読ませたいなと思う話。探偵小説で読みやすいし、ハラハラドキドキのエンターテイメント性もあるし、手軽に読めて、南部のことについて知る第一歩にもなり、英語の練習にもなる、良い作品だと思う。

Klara and the Sun / クララとお日さま by Kazuo Ishiguro

最近、Kazuo Ishiguro の Klara and the Sun (邦題: クララとお日さま) を読み終わった。

私が最初に読んだ Kazuo Ishiguto の作品は Never Let Me Go (邦題: わたしを離さないで) で、とても衝撃を受けたのを覚えている。登場人物たち存在の真の目的がわかった時、あまりにもショックでしばらく読み進めることができなかった。いまだに考えてしまう作品だ。

英語の練習も兼ねて英語の作品は英語で読むようにしている。それはたぶん細やかなニュアンス等を十分に味わえないまま読んでいるということでもあるのだろうなと思う。とはいえ英語で読むことを避けていてはいつまでも英語の機微を感じられないと思うので、そこはしょうがない。頑張るしかない。

そういった状況でも Never Let Me Go は強烈だった。

その後、いくつかの Kazuo Ishiguro 作品を読んで、今回 Klara and the Sun を読んだわけだ。

AI とは、を Kazuo Ishiguro

スタイルで書いた話。人間と AI の区別がどんどん曖昧になっていく中で、人間は AI をどう扱って何を期待するのか。

私は Klara の一途さやひたむきさや少し短絡的なところとか、素敵だなと思ったけれど、でもそこまで感情移入できなかった。理由の一つは、彼女にはおそらくネガティブな思考がないように見える点だと思う。ポジティブなことはいいことだけれど、そういった面しか考えない (考えられない) というのは、私にとってはやっぱり共感しづらいかな。それが AI が AI である所以であるというのであれば、非常に納得。

母親はかなりクレイジーだが、私は母親の必死さには人間味が感じられたというか。ただその方法がおかしいだけで、そこまで思いつめてしまっているんだな、というのはものすごく理解できた。

他に一つ思ったことは、アニミズム的な考え方がある日本だったら、おそらく全く違った話になったのではないだろうか、ということ。私は AI 的なものに実際にそう思って関わったことがないので、なんとも言えないけれど。

おそらく私は怖いのだ。AI 的なもの、に触れた時に自分が何を感じるのか。感情移入しすぎてしまうのも怖い。感情移入しない自分は冷たい人間なんじゃないか、という疑問を持ってしまうかもしれないことも怖い。今は「へー、こんなこともできるんだ。すごーい。」で済んでいるが、これが Artificial Friend までになったらどうなるのだろう。例えば、AI に感謝をすること/しないことは倫理的、道徳的にどうなのか?

とはいえ、日本には神社、というものがあるので、きちんと感謝をして、そして神社で供養してもらう、というのがおそらく私的には一番すっきりする方法なのかもしれない。